腰に10倍の光をあてるお婆ちゃんの話

このあいだ、腰に10倍の光をあてるお婆ちゃんに出会った。

 

勤務を終えて職場の最寄駅であるA駅のホームで電車を待っていると、1人のお婆ちゃんがゆっくりと近づいて来て、「このあたりにいると、何号車に乗れるの?」と尋ねてきた。福知山線脱線事故をニュースで見て以来、先頭車両付近に乗るのが怖いらしい。電車の進行方向からすると、この付近は最後尾の車両だということを伝えるとお婆ちゃんはニコリと笑ってお辞儀をした。その時に、このお婆ちゃんには前歯がないこと、それどころか前歯の脇にあるはずの犬歯とかもない感じであることに気づいた。フガフガした喋り方と笑った時の顔のシワからして、全く邪悪さを感じさせないお婆ちゃんだと判断できたので、そのまま一緒に電車に乗り込んだ。

 

17時過ぎの電車は仕事終わりのサラリーマンや、これから夜の街で遊ぶであろう若者に溢れていて、座席の前までいくには人を掻き分けなければいけない。なるべくお婆ちゃんを座らせてあげたかったが、終点の主要駅までは3駅程度だからまぁ仕方がない、我慢してもらおう、と思っていたところ、どこからともなく布を高速でこすり合せるような音が聞こえてくる。音の正体を確かめるために周囲を見回すと、お婆ちゃんが高速で腰をさすっているのである。

「おばあちゃん、腰、痛いの?」

「この歳になると、どうもねぇ...。」

そんな会話をしていると、見かねたサラリーマン風の男の人が、遠くの方から手招きをしてくれた。どうやら席を譲ってくれるらしい。おばあちゃんは技術室にあった、正確に90度を測る定規のような姿勢のまま、サラリーマン風の男に近づき、まだ男の温度を残しているであろう席に申し訳なさそうに座った。

「座れてよかったね、おばあちゃん」と声をかける。おばあちゃんは少し恥ずかしそうにしながら「歳をとってからの方が、男の人は優しくしてくれるもんだねぇ」と笑っていた。どこかで聞いたことがあるようだが、お洒落な冗談だと思った。席を譲ってくれたサラリーマンは、つり革につかまりながら、窓の外を見て少し微笑んでいるように見えた。

 

主要駅に着く頃、おばあちゃんの行き先を訪ねてみた。都心から35分程度離れた駅に向かうとのことらしい。腰を痛めた老人が電車で35分間立ちっぱなしになるのは心配だ。

「次の電車は、優先席の近くに行った方がいいかもね、おばあちゃん。」と告げると、「大丈夫。次行くところで治るから。」との返答が返ってきた。どうやらおばあちゃんはこれから病院に行くらしい。

「なんだ。それなら安心だわ。病院からお家は近いの?」

「病院は家の近くにあるねぇ。ほら、A駅の近くのスーパーの裏の...」

「あれ、お家はA駅の近くなんだ。じゃあこれから行くところは違う病院?」

「病院?違うよ。光当てるとこ!」

「光...?」

「そう、十倍の光を当ててもらうとこ!」

一倍の光すら分からないのに、十倍が分かるはずもない。思わぬ展開に沈黙している間、おばあちゃんは矢継ぎ早に「十倍の光を当ててもらうと、腰が楽になんの!」「こないだ初めて行ったんだけど、腰の痛みがあっちゅうまに、スーッと消えんのよ、コレが」「ただの光なのにねぇ...」などと、十倍の光の効用を説明してくる。

 

これから向かうところが病院でない以上、おばあちゃんが何らかの組織に圧倒的なまでに騙されていることはほぼ確実であるものの、見ず知らずの若者である自分がそれを止める術はないように思った。おばあちゃんは十倍の光に魅せられている。初対面の自分でも、その光がおばあちゃんにとっての希望であることは痛いほどに読み取れた。

 

「そんなにすごい光があるんだね。今度困ったら俺も当てに行こうかな。」

「あんたはまだ大丈夫よ。優しい男は健康でいられるもんだよ。」

「マジか、嬉しいなぁ!ありがとね、おばあちゃん」

「こちらこそ、こんな年寄りに優しくしてくれてありがとうね」

 

主要駅に着き、電車のドアが開いた。

おばあちゃんが向かうべきは目の前の階段、自分が向かうべきはホーム中央の階段。ここでお別れだ。

「おばあちゃん、最後にいっこ聞いていい?」

「なに?」

「十倍の光って、何が十倍なの?」

おばあちゃんは少し黙ったあと、こう言った。

「...“有り難み”!」

おばあちゃんは手すりに掴まりながら、十倍の光の差す方へ消えていった。